あるのはあるいはある

第5講 C-12

 先週の大敗から一週間。何を感じ何を思い、そしてどのような行動をしたのか。このそれぞれを語ることは、生きることを語ることに等しい。つまり、お金を得るとは生活の基本とされる衣食住を全うすることであり、株式投資で損益を生み出し、結果として利益を得ることは生活することなのだ。

 諸々よく分からなくなってきた。しかし、この分からないを分からないのままにしておくのは、どうにも気が晴れないものである。

○記録(3月20日-24日、21日は春分の日のため休場)

売買なし

週間結果 なし   今月の合計 ▼44,500円

保有株式 銘柄数1、株数1,000、損益合計▼30,000円

○評価

 今年に入って初めて売買をしない一週間となった。ならば評価も何もないと感じるが、そんなこともない。現在保有している銘柄になぜこだわっているのか。期待しているのかもしれない、あるいは期待し過ぎているのかもしれない。しかし、別の銘柄にも目を付けていた。その銘柄は、一週間で1.5倍という凄まじい上昇を見せている。だが、これに乗ることはできなかった。

 何故かはわからない。結局のところ思惑と過熱感なのか、何もなくても何かあるのではないかという思惑があれば、あるいは、何かの一声で火が付いて過熱感が帯びれば、株価などは容易く乱高下するものだと思う。これに乗れればよいのだが、金銭的にも精神的にもその余裕がない。この余裕を作るためには、現状の打破と昨年からある何か上手くいかないという考えからの脱却が必要だ。

 文句を垂れ流すくらいなら実行せよ。本当はできたなどと口走るなら実行せよ。悪い状況をたまたまだと言うくらいなら良い結果を出せ。運が悪かったと思うなら運を呼び込め。結局は自分なのだ。