一方的に何事かをする
第16講 H-10
先週は書くことができなかった。というよりも失念していた。これはさておき、今回で5年目になる。もうそんなにも続けていたのかと多少の感慨を得る一方、ほとんどの人に読まれることのない文章を細々と書いていることに複雑な思いもある。そして、ひとつ決断をする時が来たのかもしれない。
今回は「H-10」と振ってあるが、これが「H-13」になった回をもって、一度、無期限の休みに入るつもりでいる。この決断に至った経緯はそれほど重要ではない。端的に言えば、考える時間が必要になり、その考えを文章ではなく実行する必要があると思うようになったからである。
『常自語』をはじめてからの4年間、思考することがさまざまあった。ただし、それらはあくまでも思考に留まっていたのである。別に、思考それ自体が誤りなのではなく、思考だけではもたらされる結果が少なく、限界があると生活するなかで感じるようになった。とはいうものの、行動がともなえば限界がないわけではない。何を行うにしても限りはあるのだが、それでも限界を広げる、つまり可能範囲を広くするためには最低限、行動することが必要である。
具体的何をしようとしているのかは、脳内では想像できている。しかしながら、本当に実行するのかは別問題である。ここまで、行動が必要と数回にわたって書いている割には、その行動に臆するような文面だろう。自認している、ゆえに、自信はあるのだろうか。
今回は、報告のような形式になってしまったが、ここまでにしよう。
資本主義の基本的事柄
第16講 H-9
前々回までのことを振り返ろう。資本主義の対義語は社会主義であるとする現在の考え方を一転させ、社会主義の対義語を個人主義と捉え、資本主義の対義語を共産主義だとして一応の断定をした。
現在、多くの国家は資本主義国家である。つまり、資本を機関投資家や個人投資家などの投資家、資本家、さらに資産家が保有し、それを使うことによって、人々の労働力を買い、労働力によって生み出された商品(物質、非物質、サービスも含む)を売ることによって利益を上げ、その利益を資本家などと労働者で配分するシステムである。すでにこの社会システムのなかで生活をしている人々にとっては、この基本的な仕組みは当たり前のこととして、当然のこととして、もはや日ごろ考えることがないほどに普通なのである。しかし、普通に対して疑問を持たなければ進歩はない。
資本主義の欠陥については以前から幾つも挙げられている。例えば、労働者に対する労働力の搾取、際限なく成長することを前提としていること、そして一番の問題点は、格差がいつまでも広がっていくことである。この点についても、もはや改めて指摘するまでもないだろう。肌感覚というよりも日常生活の中でひしひしと感じていることである。加えて、さらに厄介なことは、資本は世襲されることである。以前にも指摘したことだが、資産や不動産などの資本は、そのほとんどは相続されるのである。「資本の世襲」はいつまでも格差が広がる主要因といえる。
今回は休息をいただく
第16講 H-8
今回は休息をいただく。
個人主義を少し眺める
第16講 H-7
本日、2本目である。1本目では社会主義の基本的な形、理念について話した。そして、社会主義では国家=資本の等式が成り立ち、これによって社会主義の対義語が資本主義ではないと暗示した。断面のみを細かく記しているため、全体を見通すには程遠いが、少しずつ全体を見渡せるほどの内容を持たせたい。
社会主義の対義語は資本主義ではなく、個人主義である。では、個人主義とは何か。個人主義は、自由主義に近い考え方を持っている。つまり、社会福祉や社会制度の享受は、国家が与えるものではなく個人が勝ち取らなければならない、という考え方だ。そのため、平等や公平についても個人が自らの手で掴む必要がある。このような社会では、そもそもすべてが競争の原理で成り立っており、利する者はさらに利する、貧する者はさらに貧するのである。資本は国家に寄与するのではなく、個人や個人の集団が持つことになるのだ。端的に言えば、これが資本家や起業家、あるいは企業として存在するのである。ゆえに、これを資本主義と呼ばれることが多いのだが、実は個人主義は資本主義とは異なる。
さまざまな主義主張が混在する現代社会に、こうして何かの主義を定義することは困難をきわめ、分類や配置をすることはさらに難しい状況である。その中で、どうしても止まることはできないために、考える時間が少なくなる。まだまだ、考える必要があるだろう。
国家イコール資本の形
第16講 H-6
先週は失念してしまった。そのため、今回は2本書くことにする。とはいえ、決して内容の量が多くなり、質が高まるわけではない。単純に、駄文を増やすだけである。前回は、資本主義と社会主義が対義語として扱われることに疑義を呈し、資本主義の対義語は定まらないとしたものの、社会主義の対義語は個人主義であると提示した。
では、なぜ社会主義の対義語は個人主義なのか。社会主義は、共産主義と同様であると見なされることが多いが、厳密に言えばこの両者は異なる主義・主張を持っている。社会主義で謡われることは、主に平等かつ公平な社会である。自由競争や私利私欲を排し、国家に属する人々全員が公正に社会福祉を享受できる社会を目指していたのが、社会主義だ。この主義では、土地や生産物などの一切は国家に属するものであり、これを国民に平等に分配することで、格差のない公平な社会を作ろうとした。では、ここには資本がないのかとなれば、それは違う。すべての資本は国家に属している。つまり、国家=資本であり、資本=国家の等式が成り立つのだ。国家に属する人、つまり国民全員にとって平等かつ公平な社会、これの裏返しが個人主義社会である。
個人主義の具体的な内容は次にする。
社会主義の対義語とは
第15講 H-5
前回の内容について社会主義的な向きがあると思う人もいるだろう。しかし、違う。そもそも、資本主義と社会主義を対置させることが間違いなのである。
さまざまな主義主張が混在する社会で主義主張を分類するもっとも端的で分かりやすい方法は、対義語を要することだ。例えば、無の対義語には有があり、明るいの対義語には暗いがある。このように対極にあるそれぞれの名称によって物事を分類あるいは区切ることは、日常的であり何かを学習する上でも必須の取り組みである。主義主張においても例外ではない。
資本主義と社会主義。両者のそれぞれの定義づけはしないでおく。定義については、読み手が認知、認識しているものでよい。おそらく、前々回に取り上げた2種類の定義のうち、辞書的な意味、一般的、抽象的な意味においては、たいてい一致しているだろう。各人が今まで生きてきた中でそれを知っているからだ。
資本主義の対義語については議論の余地がある。一方で、社会主義の対義語は個人主義である。この点でいえば、日本は社会主義的であろう。個人主義の代表格にある国はアメリカだ。説明不足が過ぎるが、この「社会主義↔個人主義」の対義語の関係はゆるぎない。では、資本主義の対義語は何か。ひとつには共産主義がある。だが、共産主義の具体的なことは知り得ていない。
再度、示しておく。資本主義と社会主義は対義語や対極としてあるものではない。資本主義の対義語として想定されるもののひとつは、共産主義である。そして、社会主義の対義語は個人主義である。
資本主義における資本
第15講 H-4
ここしばらくはBについて書いてきた。しかし、今回は少し視点を変えて、現代社会について考えてみる。現代社会の多くは資本主義である。資本とは貨幣や土地、国家権力のことだ。国家権力がなぜ資本なのか。それは、貨幣や土地などの価値を定めているからである。結局のところ貨幣や土地は信用によってその価値が成り立っている。貨幣などただの紙切れか金属の塊であり、土地などは大地の一部である。それに価値を付与する。しかも使うための価値ではなく、価値のための価値だ。換言すれば、それそのものでは何もできないものであるのに、何かと交換したりそれを所有していることが価値になるのである。
さて、このような資本を持っている者、資本家が優位に立てる。これが資本主義の基本的な立場だ。さらに資本は多ければ多いほど優位性は増す。加えて、資本の根源は一個人に因ることが少なく、ほとんどは一族に既存するのである。まれに、本当にまれに、一個人や数人が莫大な資本を得ることもあるが、ここではより一般的な例を取り上げよう。資本力は一族に起因する。つまり、昔でいう世襲的な制度が、現代では資本力として受け継がれているのである。近ごろ騒がれている「親ガチャ」なるものは、このような資本による世襲も関係しているのではないか。
資本、資本家、資本主義。資本についてはもっと考えるべき事柄がある。こうして反資本のようなことを書いていると、目指してるのが社会主義に見えてくるかもしれない。しかし、実際は違うのだ。
続きは次回にする。