広大な海にふたつの星

第11講 S-8

 前の記事にスターが付いていた。いつ以来だろう、まったく思い出せないほどに昔であることは分かる。ほとんど一方通行の中で、このようにしてリアクションがあることはとても有難いことである。

 さて、スターを付けてくれた方を、そのブログにある名前を取って、「ヒロさん」と勝手ながら呼ぶとしよう。

 これもまた勝手であるが、ヒロさんの記事、過去は過去としてあることを認め、今を大切に楽しく生きている印象を受けた。人生の経験、最近ふと思うことなのだが、やはり、年数には敵わないものがある。

 たとえ、いくら苦労せずとも、他人に迷惑をかけていたとしても、生きた年数はそれだけで見えない重みを感じる気がする。それは、上述した「人生の経験」が、どれだけ浅く薄く見受けられたとしてもである。あまり思想的な面を強調するのは憚られるが、ここは一筆しておく。

 自分にはできないことをした人は評価する。評価というのは「良い」評価のことである。そのうえで、その行いが正しいか否かを判断すべきであろう。例えば、例えば、どうだろうか。この例えは極端すぎるため、やめておくことにしよう。

 今回は、思いがけないスターのおかげて、いつもより長文になった。もろくも確かにあると感じる繋がり、大事にするべきである。

色々あるさ色々とある

第11講 S-7

 何かを変えるべきだろうか。そもそも、これに方向性などないのだから変えようがない。まずは、何を書き記すのかを明らかにする必要があろう。

 今年も残り1か月半を切っている。どんな一年間だったろうか、と回顧するにはまだ早いのかもしれないが、このままいくとあっという間に年末がくる。

 このように時間の流れについて少し考えてみても、時間の流れは人力でどうにかなるものではないのだ。流れに逆らうことも時には必要になるが、今は、この流れにゆだねてみる。

 しかし、流されてはいけないものもある。これについては、またいずれ書くとしよう。

ただつらつらと連ねる

第11講 S-6

 またこうして、忘却している。何を忘れていたのかは、これである。

 休日になると、自室に独りでいると、ふと思う。世界はたった一人の人間に干渉することはない。同時に、一人の人間が世界に干渉することはできない。端的に言えば、人がどうなろうと、それとは無関係に世界は変化していくのである。

 単に人の生き死にだけのことではなく、行動の一切が世界と切り離されている。

 もっと踏み込んだ議論が必要なのだろうが、今回はここまでにしておく。なぜなら、今まさに行っているこのことも、世界とは無関係であり、何たる何も為していないからである。

堕落ゆえの結果でない

第11講 S-5

 先週は、今年度でもっとも御多用な土曜日であったと思う。それゆえ、と言い訳がましくはあるが、書くことができなかった。そんな時はたいてい、翌日の日曜日に書いたのだが、土曜日に引き続き日曜日においても、「今年度でもっとも御多用な」日曜日であったため、同様に書くことできなかった。

 普通、このように言うならば、その多用の内実を示すべきなのだろうが、私事であるゆえに、書くことはしないでおこう。

 さて、では他に書くことがあるのかと問われれば、正直ない。おそらく、回数合わせとして明日も投稿するつもりのため、今回はここまでにしておく。

 かねてより、無駄な生産はするべきではないと考えている人間が、その「無駄な生産」をしているのだから、滑稽であろう。今回の内容とて、「この前の土日は忙しかった」というたった一言で済むものだった。

何であろうかこの感覚

第10講 S-4

 完全に失念していた。解せないにもほどがある。これは言いすぎか。ここで一つ、発想してみよう。

 ご多用に過ごしていたゆえに忘れたとは言えないだろうか。例えば、今日である。今日は特に予定がない、さらにいえば外的な要因での時間の縛りがない。つまり、他者が関わる予定がないのである。本来であれば、もっと早く文章を書いて投稿ができたはずなのだが、このようになってしまうということは、つまり、そういうことなのである。一方で、昨日は、珍しく予定があった。しかも、他者が関係する予定があった。そのため、言い訳にはなるが、失念してしまったのだ。

 さて、今回、ここに書くことはこれ以上ない。ただ、「生きる」すべてに僅かばかりの疑義が数多ある、というよく分からない一言を添えて終える。

 

中身と外身とその狭間

第10講 S-3

 文章を書く。これがなんたることか、むつかしい。出来事や場面、思考や主張、脳内で作り上げたものを言葉に変換して出力する。なんたる難しさか。

 ただ駄弁を連ねるだけならば、ほとんど延々と書くことができるだろう。しかし、だれかに読ませる、万人に公開するならばそれなりの内容が必要である。やはり、やはりむつかしい。

 なまじなければなきにこと、そうか、閃いた、かもしれない。閃き、覚悟、覚る、悟る。言葉に惑わされている。言葉に惑わされてはいけない。

 なぜだ。なぜ解っているのに、深奥ではそれを呑み込めないのか。まだまだ、言葉に惑わされるのだろう。

世界の観測者の一側面

第10講 S-2

 10月に入り早くも2週間が経ようとしている。

 何がしたいのか、何を為したいのか、どうありたいのか、こんなことを時々問う。

 答えは分かっているのだ、しかし、それをここに書くことはできない。

 なぜなら、それは今の行いを否定することになるからである。

 とはいえ、まったくの無回答を貫いてしまうと終着を迎えることになる。

 そこで、答えの一つ手前となる部分回答のようなものを提示しておく。

 どうありたのか、それは観測者として存在したいのである。

 観測者、もう少し具体的にすると、世界の観測者である。

 世界とは言っても、地球とほとんど同意の世界ではない。

 世界とは、視認することができる範囲での世界だ。

 例えば、知ることのない地域や海底などは、観測の対象ではない。

 観測者と呼称する以上、「視認できる範囲」はその前提条件にも思える。

 観測者はスポッターとも呼ばれるらしい。

 世界の観測者、語弊があるかもしれないが、積極的な傍観者でもある。

 これが、はじめに示した疑問の答えになる、その一歩手前の部分回答だ。