服を選ぶ手間を考える

第13講 D-1

 本日、2つ目である。1つ目の方は間隙として、収束と発散の一考を示した。内容としては、収束と発散という数学では馴染み深い用語を社会に用い、社会がいずれは収束するというものである。議論の浅さは認識している。そのため、提言程度の内容だ。

 さて、服の話をしていた。分類の仕方はさまざまあるが、ハレの日とケの日という分類をし、ハレの日に使う用に1つ、ケの日に使う用に2つあれば服は充分であると提案した。ここで一点、確認しておくが、今回は、ハレの日は慶事のみならず弔事も含むことにする。つまり、非日常の一切がハレの日である。「ハレ」と聞くとどこかお祝いや喜ばしいことをイメージするが、非日常が必ずしもよいものだとは限らない。

 これは、少し前に読んだ本に記されていたことだが、イギリスの紳士は、外向きの服を2着しか持たないらしい。しかも、同じものを2着、揃えている。つまりは、一見すると同じ服をずっときているように見えるのである。このスタイルは見方によって、清潔感があるようにも不潔感があるようにも見える。不潔感がある理由は、知らないからであろう。「全く同じの見た目の服」が「同じ服」だとは限らない。着まわすとは、このようなことで、いつも同じ服を着ることは、こんな小さなデメリット以上のメリットを持っている。

 例えば、考える手間がなくなる。人は毎日、あらゆる選択に迫られ、一日に数百回もの選択をしているという試算もあるらしい。服一着とはいえ、インナー、アウター、ボトムス、靴下、靴、小物、ほかにも何か身につけるものがあればそれらすべてが、個人の選択によって決められる。ここに書いただけでも、最低6つの選択があるのだ。もちろん、このアウターにはこのボトムスと決めている人もいるだろう。しかし、それでも、一切を同じにして、同じ服を同じように着ている人に比べれば、これらの選択はかなりの手間になる。

 ゆえに、2着に絞り、しかも同じものを2着用意することは、メリットが大きい。

収束と発散の社会事例

第13講 C-13

 先週は所用があって書くことができなかったため、今週は2つ書くことにする。とはいえ、何か特別なことをするわけでも、議論が進展しやすくなるわけでもない。

 世の中は複雑になってしまい、収拾がつかないほどに広がってしまった。ほとんど内容は知らないが、数学には収束と発散という考え方があるらしい。数列が完結するのかそのまま延々と続くのかの違いを、収束と発散で表現しているという。では、社会ではどうだろうか。天文学的な見方をすれば、宇宙はビックバンによってはじまったとされる。これは、もちろん発散である。これを超える発散はないのではないだろうか。

 宇宙のはじまりが過去最大の発散だと仮定すると、収束は宇宙の終わりを示唆している。数学の世界では、収束と発散はそのいずれかが起こるだけであるが、物事の法則からすると、終わりがあれば始まりがあり、始まりがあれば終わりがある。つまりは、収束と発散という概念は表裏一体の関係で、どちらか一方のみが起こるなどあり得ない。もう、分かるだろう。発散し過ぎたこの社会であっても、いずれ収束がくる。それがいつなのかは判然としないが、収束することは確かである。

 この収束と発散と考える一つの観点として、時間的見方がある。両者が必ずしも同じ時間をかけて進んでいくわけではない。もし、そうだとすれば、制作されたものが一瞬にして崩壊することはないし、逆に、政策の時間に対して長大な現存期間を有するものもある。

 まだまだ議論は尽きないが、間隙に変えて、いつもとは異なることを話した。

服は何着あれば足りる

第13講 C-12

 前回か、前々回から服についての話をしていた。服の機能には、身体を守ることや所属を示すことなどがあると説明したが、その中で、儀礼や儀式をしていることを示す機能があることも提示した。

 日本の文化の1つに、ケの日とハレの日がある。ケの日とは日常である。普段の日常をいい、仕事をしたり娯楽をしたりなどのほとんどありきたりな毎日を指す。ハレの日とは非日常である。お祭りや年中行事、あるいは儀式のことをいう。

 もう分かるだろう。普段着とお祝いでの服装、この2つには明らかな違いがある。もちろん、普段着といっても外向きの服や室内着、寝間着など状況や場所によって細かく分類がなされ、それぞれに合う服装というものが存在する。外向きの服については、会う人や行く場所によって、さらに細かく分けることができるだろう。しかし、お祝いでの服装はどうか。たしかに、お祝いの規模によって違いはある。

 しかしここはもっと単純に、ハレの日に使う用に1つ、ケの日に使う用に2つあれば充分であろう。また、ケの日の2つというのは、外向きの服のみを指している。室内着や寝間着については計算に含んでいない。

 では、これらの服をどのような基準でどのように用意すれば良いのだろうか。この先は、次回に譲る。

衣服の機能は幾つある

第13講 C-11

 前回は、衣食住のうちの衣、つまり、衣服や衣類の話をはじめた。その中で、ファッションや流行について考えていた。

 流行に乗ってモノを買う。それは、モノという物質を買っているのではなく、そのモノに付与された情報を買っているのだ、と記している書物があることを紹介した。これに同意した上で、衣服についてもう少し考えていく。

 服の機能は何であろうか。身体を守ること、外気温から体温を調整すること、所属を示すことなど様々ある。身体を守ることは、怪我の防止や軽減、精神的安定をつくることができる。外気温から体温を調整することは、端的にいえば、体温調整ができるということである。また、所属を示すことは、学校や職場での制服、スポーツをするときのユニフォームがこれに当たる。

 さて、ここにファッションはあるだろうか。つまり、服の機能のなかで、ファッションは存在するのであろうか。ともすれば所属を示すという機能も危ういが、ファッションは服における幻想的な機能である。いかにもそれがあると思わせることで、欲するか否かを考えさせることなく、買ってもらえるのだ。

 そして、服の機能はもう1つある。それは、儀礼や儀式をしていることを示すことだ。これは服の分類の仕方に関する事柄になる。つまり、ケの日とハレの日のことである。

流行とはやりと流行り

第13講 C-10

 食や食事に関する話を数回に渡って取り上げているが、この話題になったのは「最低限を最大限に生きる」ことの中での1つであった。「つまり、生きる基本となる衣食住に加え、睡眠にのみ時間を使うこと」が、最低限を最大限に生きるための生活である。

 さて、今回からは衣食住の衣、衣服や衣類の話をしよう。

 俗にいうファッションとは、単に服装や髪形を意味するだけでなく、それらの流行やはやりを含意している。流行とはやりは、漢字にすれば同じ熟語を用いているため、ほとんど同義語であるが、あえて、文字数を稼ぐ意味や余分なことを書く言い訳として書いた。ゆえに、今後は、流行とはやりは、流行という言葉で統一して用いる。

 流行はたいてい季節ごとにやってくる。春夏秋冬を考えれば、一年間におおむね4回あることは当然だが、これはそれぞれの季節の変化でなされる衣替えに類似している向きがあるだろう。それぞれの季節に衣替えと合わせて、複数のメディアで今期の流行を発信しているのはよく見聞するところである。しかし、それらは真に自分が身につけたい服装とは異なる。これは、とある本からの引用だが、現代人は物質を買っているのではなく、情報を買っているのである。どういうことか。つまり、食べ物でも服でも、あるいは、雑貨や日用品であっても、見た目には物質、モノを買っているように映る。ところが、買った本人はそれが欲しくて買ったのではなく、「周りの人が持っている、買っている」「これが今、人気らしい」「持っていること、食べたことを自慢したい」「流行に敏感だと思われたい」。そんな感情に動かされ、モノを買うことで情報を消費しているのである。このようなことが、とある本に記されていた。

 流行とは、つまりそういうことなのである。自分が欲しいのではなく、周囲に合わせて、欲しいと思い込む、あるいは、欲しくもないものを買う。衣服については、これが顕著であると考える。

 続きは次回にしよう。

なかなか進まない日常

第13講 C-9

 前々回から食に向き合うことについて書いている。作る時間に対して食べる時間は僅かしかなく、その僅かな時間でさえ今を生きる人々は惜しいと思っている。ゆえに、食に向き合うことをしない。今回は少しばかりアプローチを変えてみよう。

 なぜ、向き合うことをしないのか。それは、時間がないからである。いな、時間はある。時間はあるものの、その時間を他のことに使いたいと思い、実際に他のことに使っている。例えばそれを、生きる他のための行為とそれ以外に分類する。生きる他のための行為とは、睡眠であり、衣食住を確保するための賃金を得る行為である。それ以外の行為とは、言葉の通り「それ以外」なのだが、何も例示がないと分かりにくいため、挙げると、娯楽や遊戯などがある。具体的にいえば、テレビを見たり、ゲームをしたり、動画を見たりがこれに当たる。ここで注意すべきは、これらの娯楽や遊戯を否定しているわけではないということだ。

 娯楽は必要である。遊ぶことも必要である。しかし、これらの行為によって、食をないがしろにしてはならない。食が無ければ、娯楽も遊ぶこともできないのだから。つまりは、食に向き合う、食べることに向き合う、この時間を持つことである。

食事と向き合う必然性

第13講 C-8

 3月に入った。今年になって2か月が経った。今年のおよそ六分の一が終わった。ほとんど類似のことを提示したが、感じかたはそれぞれ異なるだろう。例えば、3月に入ったことは、暦の上ではなく体感としての春の訪れを想像するし、2か月が経ったことは、日々の早さを思わずにはいられない。あるいは、六分の一は、それが早いのか遅いのか分かりにくく、数字の上でも少しばかり半端な感じを受ける。

 さて、本題に入ろう。

 前回は、食べ物に対して、それらがここに来るまでの過程と食によって何を得るのかの二点を、全く考えていないということを示した。その例として、「ご飯に味噌汁、焼き魚」を挙げた。

 ご飯に味噌汁、焼き魚がある。これらの料理はどのようにしてここまで来たのか。これらは、スーパーやコンビニなどで買った食材や調理されているものがもとになっている。では、スーパーやコンビニに来るまでの過程を考えよう。ご飯、つまり米のことだが、水田から収穫されそれが加工されて売る状態となり輸送される。そもそも、収穫されるまでにどれだけの時間がかかるか。たいてい、今の時期は水田と苗を準備し、5月の下旬ごろに田植えがなされる。収穫は10月ごろである。こうして文章化してしまえば大したことはないように見えるが、あるいは文章化するにあたり単純化しているのかもしれない。いずれにせよ、文章を読み書きする以上の労苦が重ねられていることは想像に容易い。そして、購入した米は、炊かれて食べられる状態になる。このように、米だけでも、これだけの過程があり、期間がかかり、人の手が掛けられれている。

 では、味噌汁ではどうだろうか、と一々を記すわけにはいかないためここまでにしておくが、味噌汁については入っている具材によって様々であろう。

 これだけ時間を要する食事の準備に対して、食す時間は如何ほどだろうか。何分の一か計れないほどに短い時間である。それに加えて、向き合うことを忘れているのであれば、食はないも同然だ。

 続きは次回にするが、言わんとしていることは、おおむね伝わるだろう。