収束と発散の社会事例

第13講 C-13

 先週は所用があって書くことができなかったため、今週は2つ書くことにする。とはいえ、何か特別なことをするわけでも、議論が進展しやすくなるわけでもない。

 世の中は複雑になってしまい、収拾がつかないほどに広がってしまった。ほとんど内容は知らないが、数学には収束と発散という考え方があるらしい。数列が完結するのかそのまま延々と続くのかの違いを、収束と発散で表現しているという。では、社会ではどうだろうか。天文学的な見方をすれば、宇宙はビックバンによってはじまったとされる。これは、もちろん発散である。これを超える発散はないのではないだろうか。

 宇宙のはじまりが過去最大の発散だと仮定すると、収束は宇宙の終わりを示唆している。数学の世界では、収束と発散はそのいずれかが起こるだけであるが、物事の法則からすると、終わりがあれば始まりがあり、始まりがあれば終わりがある。つまりは、収束と発散という概念は表裏一体の関係で、どちらか一方のみが起こるなどあり得ない。もう、分かるだろう。発散し過ぎたこの社会であっても、いずれ収束がくる。それがいつなのかは判然としないが、収束することは確かである。

 この収束と発散と考える一つの観点として、時間的見方がある。両者が必ずしも同じ時間をかけて進んでいくわけではない。もし、そうだとすれば、制作されたものが一瞬にして崩壊することはないし、逆に、政策の時間に対して長大な現存期間を有するものもある。

 まだまだ議論は尽きないが、間隙に変えて、いつもとは異なることを話した。