今があると過去がある

第12講 C-3

 前回と前々回の議論からは、一度、離れる。

 時は事後。事後というからには何かしらの「事」があったはずである。「事」についてさまざまに想像することはできるが、ここでは、その人にとっての良いと思える非日常を過ごした時、としよう。もう少し端的に言えば、楽しかった思い出、である。思い出という表現は、数か月前や数年前のことのようにも感じるが、前日であれ、思い出になれば、それは思い出となる。

 事後の感慨。思い出と言ってしまった以上、人数や場所、どのようなことをしたかなどは、何一つとして断定できない。ゆえに具体的場面を想定して話を進めるほかないのかもしれないが、それはしないでおこう。なぜなら、全くもって自己のことになってしまうからである。一般論に個別的事情は不要である。例外として、あくまで一つの事例として取り上げるならばよいだろう。

 感慨に耽る。これが、今あることならば、今とり組んでいることならば、褒められたことだと思う。しかし、これが、過去のことであれば、今を見失っているに等しい。過去は良かった、それは、思い出としてある程度の浄化がなされた過去である。つまり、過去そのものではない。それでも人々は、過去の思い出に沈溺し、とらわれるのだ。