気づけば3年目に入る

第9講 H-12

 例えば、「今がある」と錯覚するように現状を見つめている。今も現状も似たような言葉ではあるが、両者には明確な違いがある。それは、時間か状態かである。今というのは時間としての地点を指している。一方で、現状はその今の時点の状態を指している。この違いが、最初の一文にどのように影響するのかは別として、言葉は正しく用いる必要がある。またも補足すべきだろう。ここでいう「正しく」とは、言葉を発する者と受け取る者、その授受の両者が限りなく一致した認識をしているということだ。そしてさらに、「限りなく一致した」とはどのような状態なのかを説明することが求められるが、これ以上はしないでおく。

 ここまで書いたことは、以前、といってもおよそ2年前に始めた議論に類似する内容である。今日でちょうど2年だ。この『常自語』がはじまってから。

 つまりは、明日から3年目に突入する。ほとんどよまれていない文字列は、その存在の有無から考えるべきであろう。読まれない文字は、否、見られていない文字は存在していないかもしれないから。

『常自語』の最初の記事には「十九歳からの思索」とタイトルが付され、「人生初心者」「凡人には文才がない」などと書かれている。少しばかりの懐かしさを覚える。

変化

 さて、駄弁はどれだけ積み重ねても駄弁に過ぎない。しかし、駄弁か否かを決めるのは、発した者ではなく受け取る者なのだ。つまり、いくら良い発言であっても受け手がそれを認めなければ、それは駄弁で終わる。

 例えば、「今がある」と錯覚するように現状を見つめている。よく分からない一文であっても、それを「よく分からない」で済ませれば駄弁で終わるが、誰かが何かを感じ取れば、それは駄弁ではなくなるだろう。

 3年目。どうなることやら。