飽和状態の現代社会に

第9講 H-10

 いつの日からか、この『常自語』は株式投資の記録ではなくなっている。それはなぜか。一つには、停滞があるだろう。株式投資の結果が芳しくない、その上で、芳しくないことから目をそらし、逃げようとしている。もはや、逃げている。もう一つの理由は、停滞があるだろう。一つ目と同じではないか、こう思われても仕方ない、表現が同じなのだから。こちらの停滞は、日常の停滞である。変化の乏しい日々を送ることによって、加えて、一つ目に挙げた「芳しくない」ことが相まって、悲観的思考が増しているのである。あるいは、そう思っているのである。

 以上、二つの理由から分かる通り、たいした成長が感じられない。何度も書いていることだが、読まれない文字や文章は存在しているのだろうか。物事は、視認されてはじめて、また、「名称」を与えられてはじめて、そこに「ある」と認められるのではないだろうか。

 増える一方の現代社会は、すでに飽和状態である。「増える一方」という表現は、誤りと捉える人もいるかもしれない。なぜなら、生物は日々、消費をしているからだ。だが、生産と消費を総計すると、生産の方が多いことは明らかだ。本来であれば、ここに的確なデータと論証をもって、論を補強すべきなのだが、いまはそれができない。

 ともかく、この飽和状態の現代社会そのものを問わなければならないだろう。