存在は視認からなのか

第9講 H-9

 文章を書くこと、これが仕事の人もいれば趣味の人もいる。世の中は言葉に溢れ、言葉は文章となる。『常自語』は今月で3年目に入るのだが、いままで書いてきた文章はどれほど読まれたであろうか。シュレディンガーの猫のように、観測されなければ、つまりは読まれなければ、あらゆる文章は存在していないのかもしれない。

 この『常自語』はもちろんのこと、開かずに置かれている本やネットの記事、あるいは自分で書いたノートでさえも、開かなければ中は白紙の場合だって想定されうる。

 つまり何が言いたいのか。それは、「読まれなければ、存在していないに等しい」ということだ。これが何を意味するのかは考えるまでもないだろう。

 メタ的な視点を持てば、これら、ここまで書いてきた文章でさえ、存在していないことになる。読まれるまでは。