時間がないようである

第12講 C-7

 いつ以来だろうか、金曜日にこれを書いている。今日は天皇誕生日で祝日のため、時間が取れているのだろう。

 前回は、最低限を最大限に生きる事例として食事を取り上げ、その時間的な見方を説明していた。今回は、これの続きである。

 人は、さらには動物は、食べなければ生きていけない。これは自然の摂理である。食べることは生きることであり、生きることは食べることである。少々、本論から逸れるが、食べることは殺すことでもある。つまり、生きることは殺すことであり、殺すことは生きることだとも言えよう。これについても様々に議論はできる。しかし、今回の主題は他にあるためここまでにしておく。

 食べることの可否や善悪などを説く人もいるが、問題は、食べることと食べ物に向き合っているかどうかである。前回の後半に記した「食べているようで食べていない」は、このことを含意してる。傍から見れば食べているし、本人もそのつもりの行為は、食べているようで食べていないことが多い。何が言いたいのか。それは、今、口にしているものがここに来るまでの過程、この食を受けることで自分が何を得るのか、この二点を全く考えていない、ということである。

 例えば、ご飯に味噌汁、焼き魚が目前にある。この先の話は、次回にする。

時間があるようでない

第12講 C-6

 思考の深化。普通の生活をする上では必要のない、余計な思考。最低限を最大限に生きる術。それは認識である。物事を知り、本質や意義などを理解し、これを日常に還元する。生きる術のどこに「思考の深化」が生まれるのだろうか。

 最低限を最大限に生きる。この表現は以前にもしたような気がする。最低限というのは、生きるための最低限である。つまり、生きる基本となる衣食住に加え、睡眠にのみ時間を使うことだ。現代では、とりわけ食が疎かになっている。ゆとりのない食事の時間、これは食べることのみならず、作ることにおいても言えることである。料理を手短に済ませる。これ自体は何も悪いことではないし、可能であればそうしたいと思うのも事実だろう。ただ、短時間で調理を済ませる理由が、時間がないことである場合、考え直す必要がある。時間に迫られて食事の時間、つまり作る時間と食べる時間が取れなくなる。現代における環境の弊害と言えよう。では、食べることについてはどうか。

 食事をする時間はある。しかし、食事に向き合う時間はない。食べている時も、目前にある食べ物ではなく、別のことに目を向け、それに頭を回らしている。向き合っているようで向き合っていしないし、時間があるようで時間がない。ひいては、食べているようで食べていないのである。

 この議論の続きは、次回にしよう。

重要かつありきたりな

第12講 C-5

 日々を繰り返す。これを日常という。前回も日常について記したが、やはり考えることは、日常が如何に重要かつありきたりなのかである。重要かつありきたり、この矛盾するような表現は、無矛盾でもある。

 重要、何かのことにつけ、事情や状況がさまざまあれども、この一語はよく耳にする。そして、これは大抵、たいして重要ではない時にも用いられる。一種のあおりというものか。重要は、真に重要な時にのみ使用される言葉であり、ここで記している重要も、当然、真に重要なのだ。

 ありきたりは、毎度のこと、今回も同じ、そんな思いを抱かせる。加えて、変化に乏しく、極端にいえば無味乾燥なニュアンスを含むこともあろう。ただ、ありきたりがありきたりであるためには、そのことを感じさせないことが必要だ。つまり、ありきたりだな、と思われたら、それはありきたりではなくなる。なぜなら、ありきたりの一語は、その存在すら忘却している時に表出できるからである。

 重要かつありきたり、それが日常であるならば、日常とは何なのだろうか。はじめに、「日々を繰り返す」と書いた以上、日常は日々を繰り返すことには違いない。ただ、ここで思考を留めてはいけない。もっと先に、論を展開することによって、日常をより深く知ることができる。

 しかし、その展開ができないのも事実である。

日常と非日常の境目に

第12講 C-4

 日常は繰り返しであり変化に乏しい。しかし、この日常があるからこそ非日常があるのだ。非日常に何を思うかは人それぞれだが、たいていは日常にはない体験や経験を得ることが多いだろう。日常に対して非日常という言葉を用いているのだから、これは当たり前のことかもしれない。しかし、言葉の上での、定義上の解釈をしなくとも、実感として分かると思う。ありきたりの日常、いつも通りの日常、それらの日常は、「ありきたり」とか「いつも通り」などといった形容をしようがしまいが、「日常」の一言で完結しているし、何ら不足はない。

 日常も非日常も人によってその内容は異なる。外食が日常という人もいれば、非日常という人もいる。旅行が日常という人もいれば、非日常という人もいる。また、日常と非日常の境目の一つである、頻度の捉え方も人それぞれである。月に1回であれば日常という人もいるし、毎週でないと日常ではないという人もいる。

 つまり、個々人による日常と非日常があり、その内容や頻度も各人によって多種多様なのだ。これは、共有されることかもしれないし、共有できないことかもしれない。しかし、そのような日常と非日常が個々人にあることは、共有できることだろう。

 そして最後に、日常と非日常が決壊するとき、人はその頻度や内容を拡大する傾向にある。この事実は、充分に知っておくべきだ。

今があると過去がある

第12講 C-3

 前回と前々回の議論からは、一度、離れる。

 時は事後。事後というからには何かしらの「事」があったはずである。「事」についてさまざまに想像することはできるが、ここでは、その人にとっての良いと思える非日常を過ごした時、としよう。もう少し端的に言えば、楽しかった思い出、である。思い出という表現は、数か月前や数年前のことのようにも感じるが、前日であれ、思い出になれば、それは思い出となる。

 事後の感慨。思い出と言ってしまった以上、人数や場所、どのようなことをしたかなどは、何一つとして断定できない。ゆえに具体的場面を想定して話を進めるほかないのかもしれないが、それはしないでおこう。なぜなら、全くもって自己のことになってしまうからである。一般論に個別的事情は不要である。例外として、あくまで一つの事例として取り上げるならばよいだろう。

 感慨に耽る。これが、今あることならば、今とり組んでいることならば、褒められたことだと思う。しかし、これが、過去のことであれば、今を見失っているに等しい。過去は良かった、それは、思い出としてある程度の浄化がなされた過去である。つまり、過去そのものではない。それでも人々は、過去の思い出に沈溺し、とらわれるのだ。

気力と能力の不足実感

第12講 C-2

 前回、「人々は本来、何もしなくてよい」という考えのもと、その理由を挙げつつ論を展開した。理由として個人の問題と社会の問題を提示したが、今回は社会の問題に焦点を当てる。

 いまの社会は、動き続けれなければならなくなっている。常に新しさ、進化を求め、物はすぐに生産と消費が繰り返される。では、この生産と消費の繰り返しの果てに、何が残るのだろうか。それは、環境の破壊である。

 環境の破壊。これは言い過ぎかもしれないと思われるが、事実である。「破壊」という表現が重々しいのであれば、単に「壊す」とでも「悪化する」とでも言えばいい。とにかく、環境の問題が、いまの地球社会にはある。

 「人々は本来、何もしなくてよい」とは、つまるところ「環境保全」「地球保全」につながるのである。もし、もう少し考える力と気力があれば、もう少し深い洞察や思考ができるのかもしれない。それができないのは、不足が多いからだと理解している。

 しかしそれでも、少しは何かを書いていく。

望むもの望まれるもの

第12講 C-1

 人々は本来、何もしなくてよい。私事をここに記すことはしたくないのだが、あまりにも明らめたことがあったので少しばかり書いておく。

 人々は本来、何もしなくてよい。衣食住が最低限そろった環境、健康的な身体、この2つがあれば充分である。ここに、不足するもの過分でであるものは一切ない。であるのに、なぜ何かを求めてしまうのだろうか。もっと何かをしたい、何かを得たいという感情や思考は、ほとんどの人が現在すでに持っている充分を不十分にしてしまうのだ。すると、どこか満たされていない、思うようにいかないという無駄な考えが出てくる。

 この無駄な考えは何に繋がるのか。もちろん、さらなる感情や思考を生み出すことにもなるが、一番、言いたいことは、自然環境の破戒である。無駄な考えは、無駄な生産活動を引き起こす。不要なものを生み出し、しかも、過剰に生み出し、それを本当は欲しくもないのに購入してしまう。このような、不必要な生産と不必要な消費の活動は、地球や自然を傷め、人間や社会の私利に走ることになるのである。

 言ってしまえば、ここにこのように文章を連ねることも、本来は不要だ。なぜなら、「人々は本来、何もしなくてよい」のだから。これができないのには、2つの側面がある。1つはここまでに記したように、個人の問題である。人が持つ何かをしたい、何かを得たいという感情や思考が、その1つの側面だ。もう1つは、社会の問題である。実は、この社会の問題は、個人の問題と連関しているため、相互不可分の関係にある。では、社会の問題とは何か、これについては、今度、話すとしよう。