望むもの望まれるもの

第12講 C-1

 人々は本来、何もしなくてよい。私事をここに記すことはしたくないのだが、あまりにも明らめたことがあったので少しばかり書いておく。

 人々は本来、何もしなくてよい。衣食住が最低限そろった環境、健康的な身体、この2つがあれば充分である。ここに、不足するもの過分でであるものは一切ない。であるのに、なぜ何かを求めてしまうのだろうか。もっと何かをしたい、何かを得たいという感情や思考は、ほとんどの人が現在すでに持っている充分を不十分にしてしまうのだ。すると、どこか満たされていない、思うようにいかないという無駄な考えが出てくる。

 この無駄な考えは何に繋がるのか。もちろん、さらなる感情や思考を生み出すことにもなるが、一番、言いたいことは、自然環境の破戒である。無駄な考えは、無駄な生産活動を引き起こす。不要なものを生み出し、しかも、過剰に生み出し、それを本当は欲しくもないのに購入してしまう。このような、不必要な生産と不必要な消費の活動は、地球や自然を傷め、人間や社会の私利に走ることになるのである。

 言ってしまえば、ここにこのように文章を連ねることも、本来は不要だ。なぜなら、「人々は本来、何もしなくてよい」のだから。これができないのには、2つの側面がある。1つはここまでに記したように、個人の問題である。人が持つ何かをしたい、何かを得たいという感情や思考が、その1つの側面だ。もう1つは、社会の問題である。実は、この社会の問題は、個人の問題と連関しているため、相互不可分の関係にある。では、社会の問題とは何か、これについては、今度、話すとしよう。