つごもりおおつごもり

第11講 S-12

 数字が一つずれている。これは致し方ないことなのか、それともどこかで間違えているのか。もはや、どちらでも、なんでもよいであろう。これは、放擲ではない。語彙力の欠如というべきか、多少の表現力しか持ち合わせていないと、文章にする量もおのずと減っていく。

 さて、本日は、大晦日である。新年から365日目。明日になれば新年1日目になる。これは、自然の摂理であるし、現在においては当然の事実である。人々は、時間を発見してしまった。ゆえに、これに縛られることになる。発見は、縛りの増加なのだ。

 考えれば、否、考えなくともわかること。本来すべては何物でもなく、何者でもない。言葉は一切を「区別する」ためではなく「区切る」ためにある。つまり、「本来すべては何でもない」のだ。それを人々は言葉によって「区切った」。そしてこれらの言葉は、人間のみに与えられた特殊性を持っている。

 人間は動物である。これに疑義はないであろう。動物は争うものだ。そして、争いには肉体的身体的な力を必要とする。つまり、暴力である。力を振るうこと、それによって優劣を測り、優劣を決め、劣は優に従う、という構図が出来上がった。しかし、人は、人間は言葉を持っている。言葉の暴力などという言葉もあるが、言葉は本来、会話をはじめとする「対話」や「対談」、結局のところ「話し合い」を可能にした。

 つまり、話し合うことができるのである。そして、肉体的身体的な力を必要としない。人は、人々は、人間は、こうして精神的な力によって優劣を決めることができるのである。さらに進んでいうと、優劣すらも超越した話し合いも可能である。

 とにかく、今年は争いが絶えなかった。言葉を持つ動物である人として、これほど無残なものはない。

 われわれは、来年も生きるであろう。何があっても、生きるのである。