生命は受け身からなる

第11講 S-11

 生み出されたものと消えゆくもの。この対比の一文から始まると、これについて書かれるのだと感じるが、そんなことはない。ここで注目したのは、「生み出される」である。

 受け身になってはならない、受け身ではなく能動的であるべきだ、などと言う人がいる。しかし、本当にそうであろうか。人の、生命のはじまりは、生まれることにある。そう、生まれる。「生まれる」である。これほどまでの受け身の表現はないであろう。たしかに、「生まれる」の「れる」が自動詞の一部だとする解釈もある。

 だが、そうであったとしても、生命は生まれるのである。それは、今ある生命が生むのだが、その生命も「生まれた」生命である。「生んだ」生命ではない。

 受け身になってはならない。表面的には、部分的にはそれも妥当なことだといえる。しかし、根本的には、全体的には、生命は受け身からはじまるのだ。この覆しようのない事実をもってしても、受け身になってはならない、と言えるだろうか。もしそうであるならば、これを言う人は、自らの意志を持って「生まれた」あるいは「生んだ」のであろう。繰り返しにはなるが、ここでいう「生まれた」と「生んだ」はその人自身のことである。やはり、文章として不自然な感じになるであろう。

 受け身であってはならない、否。生命は、受け身からはじまる。