時間がないようである

第12講 C-7

 いつ以来だろうか、金曜日にこれを書いている。今日は天皇誕生日で祝日のため、時間が取れているのだろう。

 前回は、最低限を最大限に生きる事例として食事を取り上げ、その時間的な見方を説明していた。今回は、これの続きである。

 人は、さらには動物は、食べなければ生きていけない。これは自然の摂理である。食べることは生きることであり、生きることは食べることである。少々、本論から逸れるが、食べることは殺すことでもある。つまり、生きることは殺すことであり、殺すことは生きることだとも言えよう。これについても様々に議論はできる。しかし、今回の主題は他にあるためここまでにしておく。

 食べることの可否や善悪などを説く人もいるが、問題は、食べることと食べ物に向き合っているかどうかである。前回の後半に記した「食べているようで食べていない」は、このことを含意してる。傍から見れば食べているし、本人もそのつもりの行為は、食べているようで食べていないことが多い。何が言いたいのか。それは、今、口にしているものがここに来るまでの過程、この食を受けることで自分が何を得るのか、この二点を全く考えていない、ということである。

 例えば、ご飯に味噌汁、焼き魚が目前にある。この先の話は、次回にする。