食事と向き合う必然性

第13講 C-8

 3月に入った。今年になって2か月が経った。今年のおよそ六分の一が終わった。ほとんど類似のことを提示したが、感じかたはそれぞれ異なるだろう。例えば、3月に入ったことは、暦の上ではなく体感としての春の訪れを想像するし、2か月が経ったことは、日々の早さを思わずにはいられない。あるいは、六分の一は、それが早いのか遅いのか分かりにくく、数字の上でも少しばかり半端な感じを受ける。

 さて、本題に入ろう。

 前回は、食べ物に対して、それらがここに来るまでの過程と食によって何を得るのかの二点を、全く考えていないということを示した。その例として、「ご飯に味噌汁、焼き魚」を挙げた。

 ご飯に味噌汁、焼き魚がある。これらの料理はどのようにしてここまで来たのか。これらは、スーパーやコンビニなどで買った食材や調理されているものがもとになっている。では、スーパーやコンビニに来るまでの過程を考えよう。ご飯、つまり米のことだが、水田から収穫されそれが加工されて売る状態となり輸送される。そもそも、収穫されるまでにどれだけの時間がかかるか。たいてい、今の時期は水田と苗を準備し、5月の下旬ごろに田植えがなされる。収穫は10月ごろである。こうして文章化してしまえば大したことはないように見えるが、あるいは文章化するにあたり単純化しているのかもしれない。いずれにせよ、文章を読み書きする以上の労苦が重ねられていることは想像に容易い。そして、購入した米は、炊かれて食べられる状態になる。このように、米だけでも、これだけの過程があり、期間がかかり、人の手が掛けられれている。

 では、味噌汁ではどうだろうか、と一々を記すわけにはいかないためここまでにしておくが、味噌汁については入っている具材によって様々であろう。

 これだけ時間を要する食事の準備に対して、食す時間は如何ほどだろうか。何分の一か計れないほどに短い時間である。それに加えて、向き合うことを忘れているのであれば、食はないも同然だ。

 続きは次回にするが、言わんとしていることは、おおむね伝わるだろう。