知は言葉に集約される

第2講 S-10

 ようやく『第2講』に進んだ。前回述べたように、ここでは「言葉」と「知」とを連関させて思索をする。結論から言えば「知は言葉に集約される」である。

 そもそも「知」とは何であろうか。「知る」つまり「しる」は、感覚としてなんとなく分かるが、なんとなくでしか分からない。

 例えば、ある「言葉」を知っていて、それについて「どんな意味を持っているのか」と問われると答えるのはなかなか難しいだろう。当然のことである。なぜなら、「言葉」を説明するためには「言葉」を必要とするからだ。この反論として「そうでないものがある」ことが指摘される。視覚としてわかるもの、例えば物質全般である。建築物、自動車、電化製品など見えるものは、説明に「言葉」を要しない。「これがそれだ」との主張ができるからである。しかしながら、これでは説明になっていないことが容易に分かるであろう。例えば、感情。これはむしろ「言葉」での説明が困難な類である。例えば、行動。これについても感情と同様に「言葉」による説明が困難だ。しかし、すべて「言葉」は「言葉」によって説明されている。辞典や事典がよい例であるが、これらは正に「言葉」、言い換えれば「文字」の集積物と言える。

 はじめは「知」を「知る」と読ませて考えていたのに、途端に「言葉」について考えている文章になってしまった。なるほどこれが「知は言葉に集約される」の一端である。