出発点はどこにあるか

第3講 C-10

 前回の内容をまとめると、発話者はその発言が、「断定」なのか「意思」なのかをはっきりさせるべきである、となる。このたった一文のために、不要な言葉を用いてしまったことを自省する。

 ここまで「言葉」について説明してきたが、もう記すべき事柄はないのかもしれない。『第3講』と題して書いてきたことは、言語学や日本語についてであり、「言葉」そのものについて説明しているわけではない。今まで記してきた、「全ては既に在る」や「言葉を言葉で集約する」などの思考は、長くに渡りその主張を組み立て、表にすることなく温存したものだ。ところが、表にしても多くの人が目にすることは未だない。    

 これは単純に、力不足であろう。認知されることはそう容易いことではなく、努力と運によるものだと思っている。では、運がなかったのか。いや、そうではない。まだまだ努力が足りないのだ。足りないどころか、未だ努力をしていないのかもしれない。

 つまり、言いたいことは「言葉」とは何かをこれからも思索する。加えて、「言葉」以外の思索もはじめる。「言葉」とは何かを思索してきたのは、「言葉」を用いて思索するのに「言葉」そのものの理解が不可欠であるからだ。「言葉」を知らずに「言葉」を用いることは危険である。これは、あらゆる物事に当てはまる。言わずもがな、ここまでの些事は日常にあふれているだろう。

 何度も言うが、これからも思索は続く。