たまには呟いてみたい

第8講 H-5

 そうか、そうだったのか。

 彼は一言、つぶやいた。昭和の一時代に起こった、無気力・無関心・無責任の三無主義は、まさに自分のことを、自分の理想にかなり近いことを示していたのだ。自分の発想など、そのほとんどは古人がすでに見つけている。古人を「かつての人」などと嘲ることはできないだろう。なぜなら、今にもその存在を残しているのだから。

 かくゆう自己はどうであろうか。新しい発見をしたことも、大々的に注目されたこともない。ただ、今に名を残す古人が、その生前から注目されていたとは限らない。

 そのような人は、たしかに浮かび上がる。しかし、このような生き方をしたいわけではないのだ。

 真に生きるとは、名を残さないことであろう。つまり、世間一般からすれば下等と思われるような存在。その下等は、「品がなく、貧である」というわけではなく、坦々と日常を過ごしている人のことである。

 理想は程遠いのかもしれない。三無主義が自分の理想にかなり近いと既述したが、逆説的に、三無主義は理想から最も遠い言葉ともいえる。近づけども触れられず、遠くにあると触れられる。この圧倒的矛盾は、実は無矛盾だ。

 実体験として想起できる人もいるだろう。かくゆう自己は、その例を提示できないのだが。

さてと

 今回は、「○記録」も「○評価」もしないでおく。しない、ではなく、しないでおく、と表現することによって、断定から一段階、柔らかさを込めた言い方を感じるであろう。

 これは心情の変化というべきか、乱れというべきか。いずれにしても、逃げたわけではない。自らこのようなことを書いてしまうと、それを肯定しているようにも見える。しかし、本当に違うのだ。ただし、逃げてはいないが、躱している実感はある。

 ここまで読んだ文章から察することができるかは分からないが、今週はこんな感じであった。来週に、期待するでもなく、希求するでもなく、ルール通りに行おう。